『絵のある人生―見る楽しみ、描く喜び―』 安野光雅

 安野光雅は、わたしの好きな水彩画家だ。マットな風合いの画風が特徴的で、ヨーロッパを舞台に、とてもかわいらしい風景画を描く。

 ちかごろ本格的に絵を習い始めたこともあって、この本を手に取ってみた。

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 本書では、安野さん自身の絵とのかかわり方や、美術史上での人と絵のかかわり方の変遷、そしてこれから絵を始める人への手ほどきが語られている。

 本書で一貫しているのは、「絵がすきなら、それで十分」という、あたたかいまなざしだ。そのやさしい語り口は、彼の淡いタッチの水彩画を思わせる。

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美とは何か

 美術館にはさまざまな種類の作品が展示されている。まるでそこにあるかのように本物そっくりな油絵もあれば、幻想的なシュルレアリスム絵画もあるし、かと思えば、恐ろしい絵や、わけのわからない抽象画も展示されている。そうなると、美とはなんだろう、考えずにはいられない。

 幼いころは、「美しい」とはきれいなものだと思っていた。でも、今のわたしは、すこし怖い雰囲気のするものや、不穏な気配が感じられるものに心惹かれてしまう。この感覚は何なのだろうと思った。安野さんはこう書いている。

 「『美しい』と『きれい』とはちがう」……これは傾聴すべきことばです。「きれい」というのは「汚い」の反対語ですが、「美しい」というのは醜悪な部分までも含んでいます。たとえば、グリューネヴァルトの作になる、コルマール(フランス)の教会の祭壇画に描かれたキリストは、目を覆うほどのおできや腫れ物で覆われています。(略)

「美しい」 と感じる感覚は、一口にいうと、心を動かされることです。自然や芸術作品に、人の心を動かすだけの力が無くてはかないませんが、それを見る人の感性のありかたというものがあろうと思います。「きれい」なものに心を動かされても悪くはありません。しかしさらに深く働きかけて、見る者が「美しさ」を見つけ出すこともあるわけです。つまり、「美」という厄介なものは、対象に備わっている美しさというより、むしろそれを見る自分の感性の責任でもあるといえます。(p.9-10)

f:id:copal:20151108164400j:plainグリューネバルトによるキリスト *1

 絵を見るということは、絵という鏡に自分を映す作業とも思えてくる。では、鏡たりうる絵はいったいどんなものかと問われると、またわからなくなる。それこそ、「自分で見出したもの」というところだろうか。

 このことは、絵に限らず芸術一般についていえる。芸術作品を鑑賞するとは、とてもパーソナルな閉ざされた営みであると同時に、作品と自分自身の共同作業という開かれた側面もあるというのが、私の考えだ。

 ともあれ、いちばん大切なのは「これがいい」と思えるものを自分で見つけることだから、肩の力を抜いて絵を見てみよう。

絵を描くとはどういうことか

 風景画や静物デッサン描いていると、「写真というものがあるのに、一体どうしてわたしはせっせとこんなものを描いているのだろう。ああ下手だな、嫌だなあ。」と思うことが多々ある。そんなわたしを勇気づけてくれたのは、次の部分だ。

街道をゆく」の取材に同行してスケッチをしたとき、司馬遼太郎は「絵にする」という言葉で言いました。「安野さんはな、こんなところでも絵にしちゃうんだからな」と言うのです。「そうかな」と思いました。これは悪く言っているわけではありません。ゴッホが「絵にしてしまう」のは作為的ではなくて、天性で「絵になってしまう」のではないかと思います。そんなときはうらやましいものです。

 また、司馬遼太郎は「本物のリンゴと絵に描いたリンゴとで、絵に描いたリンゴの方がいいのはなぜだろうね」とよく言っていました。謎をかけられているようで軽々には答えられませんが、 ゴッホの仕事の中に答えがあります――というのもまた、謎のような返事でしょう。ゴッホの描いた病院の庭そのものには格別なにも感じませんが、彼の絵の方には胸を打たれる物がある、ということです。(p.90-91)

 またこんな部分も興味深い。

肖像画などの場合は、その写真を見て描けばいいと言えるでしょうか。そう考えやすいものですが、そのようにしてみると、写真にはそっくりにできますが、本人には似ていないという現象がおこります。そもそも、写真は瞬間の映像ですから、わたしたちがいろんな見方を総合して認識している本人にそっくりなものが撮れているのかどうか、という疑いがあるからです。

ゴッホの手紙(中)』(硲伊之助訳、岩波文庫)に興味のある言葉があります。

「正確な素描や色彩を求めるのが肝心なことではないのかもしれない、なぜかというと、鏡に映った姿を色やなんかで定着させてみても、絵とは全然別のもので、写真以上のものではない」(p.77)

 なるほど絵を描くというのは、対象を観察し、自分の中でいったん咀嚼してから、対象の姿を紙に落としているのだと改めて思った。自分というフィルターを通した対象の姿がそこに立ち現われるのだ。だからこそ、時に絵は写真より多くの真実を語るのだ。

 

 ところで、屋外で風景を描いていると、雲が流れて影の具合が変わるわ、日が暮れてライトアップが始まるわで、さあどの瞬間を描けばいいのかしらと考え込んでしまう時がある。安野さんにもそんな迷いがあったようだ。

  イギリスの小さな町のスケッチを描いていた時のこと。朝の日射しが木組み模様のある家並みに深い影を落としていたので、

「この影は今のうちに描いておかないと変わってしまう」と、少しあせった気分で考えました。そこで他のどこよりも先に影をまず描き、それから落ち着いて、絵に色をつけていきました。そしてできあがるころには、なんだか写真のような立体感がでていました。ところが目の前の影は動いて、わたしの絵とはすっかり変わっていました。それはそれでいいし、その絵を見た人には、そんな時間経過のことまではわからないだろうから問題はなさそうですが、わたしとしては不満でした。写真でもないのに、時間を止めたようなものだし、絵で瞬間を描かないでもいい、と思ったからです。ふりかえってみると、いつもはそんな影を描いたことはないのでした。(p.45-46)

 たしかに彼の絵には、影が描かれていない。影が無いということは、光もないということ。それゆえに、平面的で独特のマットな印象を与える。絵のいいところは、モデルや対象とちがう部分が、その絵の魅力になりうるということだ。

絵描きの人生―枯れるということ

 画家の晩年というのはけっこうおもしろい。思えば、画家の一生というのは、写実からどんどん解体されてゆく過程と言えるのではないか。というのも、画家が若いころは、写実的ないわゆる「ふつうの絵」を描くことが多い。そこから最盛期に向かって個性が花開き、晩年には最盛期ほどのエネルギーはないものの、どこかクレイジーな画風に発展してゆく傾向があるように思えるのだ。

 わたしは器用な方でした。絵描きは器用でないほうがいいと言われて、ずいぶん悩んだこともあります。正方形を描くとか、特に太い直線と細い直線を平行させる子持ち罫で正方形を描くというのはかなり難しいことですが、版下を作る技術者は難なく描きます。またそうしてできた面をムラなく塗りつぶす、ということも難しいことです。これは絵というよりむしろグラフィックデザインの場合に必要なことです。そんなことも若いころはできていました。ところが歳とともにできなくなります。

 ここのところを、うまい言い方で「枯れてきた」などといいます。何といい言葉でいうのでしょう。まっすぐに線を引こうと思っても引けなくなって、枯れたというと、それはそれでよく見えてくるからありがたいものです。( p.187-188)

 年を取ると、若いころに出来ていたことができなくなってしまう。しかしそのお蔭で絵に味が出てくるというのなら、年老いるのも悪くない。絵とともに生きてゆけば、年を取ることもまた楽しみになるのかもしれない。

さいごに

 結局のところ、絵というのは好きだ、描きたいという気持ちがあるのなら、もう十分。

わたしは、軽々に「絵描きになれ」と人に勧めることはできません。でも、それで生活しようと思わないですむなら、大賛成です。絵を描くことは、描かないで過ごした人生にくらべて、どんなに充実しているか知れないのだから……。今ごろになって「絵と一緒に生きてきてよかったな」と思っています。(p.198)

 さて肩の力を抜いて、鉛筆を手に取るとしましょうか。

岩波新書 絵のある人生

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本書で取り上げられている芸術家

上村松園(1875-1949)/鏑木清方(1878-1972)/萬鉄五郎(1885-1927)/パブロ・ピカソ(1881-1973)/岩田専太郎(1901-1974)/香月泰男(1911-1974)/須田寿(1906)/レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)/ボッティチェリ(1444-1510)/フラ・アンジェリコ(1387-1455)/レンブラント(1606-1669)/フェルメール(1632-1675)/シャルダン(1699-1779)/アントニオ・タピエス(1923)/パウル・クレー(1879-1940)/ブリューゲル(?-1569)/ミレー(1814-1875)/ルーカス・クラナッハ(1472-1553)/フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)/クールベ(1819-1877)/ファン・アイク/コンスターブル(1776-1837)/ターナー(1775-1851)/藤田嗣治(1886-1968)/ジャコメッティ(1901-1966)/フェルナンド・ボテロ(1933)/佐藤忠良/エル・グレコ/有元利夫(1946-1985)/デューラー(1471-1526)/アブラハム・ブリューゲル(1631-1697)/高橋由一(1828-1894)/ブルネレスキ(1377-1446)/マンテーニャ(1431-1506)/エッシャー(1898-1972)/ボス(1450-1516)/スーラ(1859-1891)/アンリ・ルソー(1844-1910)/ドガ(1834-1917)/ユリトロ(1883-1955)/ノーマン・ロックウェル(1894-1978)/野田弘志/アンドリュー・ワイエス(1917-)/アングル(1780-1867)/マネ(1832-1883)/ピサロ(1830-1903)/シスレー(1839-1899)/モネ(1840-1926)/セザンヌ(1839-1906)/ルノアール(1841-1919)/原田直次郎(1863-1899)/浅井忠(1856-1907)/小山正太郎(1857-1916)/松岡寿(1862-1943)/山本芳翠(1850-1906)/川村清雄(1852-1934)/黒田清輝(1866-1924)/児島虎太郎(1881-1929)/

  1. ピロスマニ

本書で取り上げられている本

 

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